| 舞台『おまつりのヨル』回想 〜あの役に込めた思い、そして青春の千秋楽=` |
序章 −夢は形を変えて−
物語・登場人物紹介・・・・・博一=主人公、らん子=博一の妻=主人公、博行=博一の長男
初稽古での演出家からの第一声:「代わりはいくらでもいるんやぞ」
想像以上に“重かった”、長男・博行へのセリフ
『子どもとのコミュニケーション』という事
『夫婦仲の表現』へのチャレンジ
立ちはだかる厚い壁:『らん子の“愛”を感じながら』子どもに語る・・・・・
もしも本当に私が結婚するなら、相手はどんな人? 独り万博公園で思いを巡らせた日
本番で、2日連続しでかした大失敗
脳震盪を起こしながらの芝居、そして『受ける愛』表現の行方は?
終章 −青春の千秋楽−
※印刷をして手元で読みたい方は、Word版をどうぞ(写真は割愛しております)。
序章 ー夢は形を変えてー
『愛地球博』開催に沸いた2005年、世間では改めて、35年前(1970年)に行われた、日本の(アジア全体でも)元祖万博である大阪万博の事が、話題に上がった。
“こんにちは、こんにちは、東の〜、国から〜、こんにちは、こんにちは、西〜の〜、国から〜。せんきゅ〜ひゃく〜ななじゅう〜ねんの〜、こ〜んに〜ち〜は〜♪♪”
三波晴夫の、『世界の国からこんにちは』の歌のフレーズを読んで、「懐かしいなぁ」と思う方も、中にはおられると思う。ある人は若かりし頃に、ある人は青春真っ只中の時代に、そしてまたある人は幼少〜子ども時代に、あのお祭り騒ぎの万博、『世紀の祭典』と謳われた万博に、行ったなあと回想しながら・・・・・。
私もそんな、『万博世代』の人たちと一緒に懐かしむ事が出来ればと思う。しかし残念な事には、その時私は生まれていなかった。それどころか私の両親さえ、まだお互い出会っていなかったのである。私が生まれたのは万博から3年後。もうあのお祭り騒ぎの気分など、とっくに冷めてしまった時代だった。「出来るものなら何らかの形で、万博を体験してみたい」私はずっと思っていた。よく図書館にこもって万博公式写真集を見たり、テレビで時折万博の映像が出てくる番組があると、ビデオに録ったりしていたものだった。そして・・・・・、
『万博30周年』ムードに沸いた2000年、27歳だった私は、思いがけない形で万博見物を実現させることになる。
当時、私は役者になる事を夢見てある劇団に所属していたのだが、その劇団の公演舞台が毎年8月にあり、私も前年に続いて公演班に入っていた。そして、この年の舞台の演目が『おまつりのヨル』となり、内容は、1970年9月5日の万博会場を舞台とした、ある見物客家族の物語となったのである。9月5日という日付まで設定されるとはずいぶん細かいなと思ったが、脚本の作者曰く、
「これは万博の当時実際にあった出来事で、夜の閉館時間になっても、『会場で野宿して明日の朝パビリオンを見る』というお客が溢れて大変な事になってしまったんです。実際、相当数の人が会場で一夜を明かしたという事です」
「そんな体験、実際にしたらさすがに大変な思いを味わうだろうな」と思ったが、とにかく舞台の内容は万博見物となり、私は何と、会場シーンの最初から最後まで登場する主役級の役となったのだ。具体的には、メインの登場人物となる7人家族の父親役だったが、こうして私は、生まれていなかったために行けなかった万博に、舞台の中の登場人物という形で“行ける事になった”のである。もちろん、実際に公演舞台が行われる場所は万博記念公園ではない。しかしそれでも、役作りの一環としてあちこちから万博当時の資料を集め、稽古場ではいつも『世界の国からこんにちは』を歌っていたから、おのずと気分は万博見物客になっていたわけである。
配役的にも『主役』というゴツいものをいただいた私であるが、形を変えて実現した、万博見物であった。
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| 大阪万博のシンボル、太陽の塔。 今でもこれを見る度に、あの公演舞台で苦労した日々を思い出す。 |
さて、舞台『おまつりのヨル』の思い出を語るにあたり、まずはその物語の内容と、登場人物の紹介をしなくてはならないだろう。
ここで掻い摘んで、物語を解説していくことにする。
『おまつりのヨル』
物語は、実は現代(2000年)の大阪から始まる。場所はある会社のオフィスである。
万田博行(以下、博行と称す)、37歳。彼はこの会社の課長であったが、パソコンが全くの苦手で、そのため若い部下たちに、いつもパソコンに関して同じ質問をして、すっかり部下から敬遠される存在になっていた。いや、いい加減見下されていると言ったほうがいいかも知れない。とにかく、時代の波についていけず、内心孤独を味わっていたのだ。
ある日、博行は会社で残業していた。そこへ警備員のお兄さんがやってくる。「課長、今夜も残業ですか?」と話しかけ、しばし課長(博行)と話し込んだ。博行はカップ酒を飲みながら仕事をしていた。会社内での飲酒は原則として禁じられており、警備員にその事を指摘されると、博行は、「バレた?でもまあええがな。お前も一緒に飲み」と、半ば強引に、勤務時間にある警備員に酒付き合いをさせる。
さて、警備員は、元は交番のお巡りさんだったという。その話を博行にすると、ホロ酔い気分になってきた博行は、ひと言「へーえ」と言った後、こう続けた。
「俺な、昔、あんたみたいなお巡りさんに、一晩中世話になった事があるんや」
この話に警備員も少々ビックリして、「何か悪事でもしでかしたんですか?」と訊いてみたところ、博行はにわかにテンションが上がり、少年のような目になってこう言った。
「違う。万博の時や、万博。知ってるか?今からちょうど30年前、千里の丘で・・・・・。そう!思い出した。思い出したぞ!!日本万国博覧会。世界の国からこんにちは!さあ、握手を〜、し〜よ〜う〜!!」
******** ここで一気に場面転換、1970年の万博会場となる******** |
大阪・千里の万国博覧会会場。各国のパビリオンが林立し、色とりどりの国旗に、民族衣装を身にまとった外国人の人たち。
太陽の塔がそびえ立ち、その手前は『お祭り広場』となっていて、絶えずイベントが催される。辺り一面、『陽気の海』。
およそ過去に前例のない、空前の賑やかさ、そして何より大スケールである。会場内、見渡す限り、人・人・人・・・・・。
万博会場に、ある一家が見物に来ていた。その一家とは万田一家。
父親の万田博一(当年34歳)、母親の万田らん子、長男の万田博行(当年7歳)、長女の万田千里(せんり)、次男の万田博太郎、次女の万田平子、三女の万田和子の7人家族。2男3女という兄弟の多さであった。
一家で万博見物に来ていたが、主導権を握っていたのは母親のらん子だった。らん子はとにかく気が強く、おっかない、そして厚かましいを地でいく人物で、世にも典型的な、ナニワの肝っ玉母ちゃん≠セった。それに対して父親の博一は、気弱で生真面目、頼りないを地でいく人物で、世にも典型的な、嫁さんの尻に敷かれる旦那≠セったのである。こんな好対照な夫婦のもとに、実に5人もの元気な子どもがいたのであるが、その子どもたちも、一人一人個性が違っていた。
長男の博行は、のんびり屋でやや反応が鈍く、しかし密かに勉強家というタイプ。5人の子どもの中では、一番父親似の性格だった。母親(らん子)からはいつも、「大きくなったら、せめて大きな会社の課長ぐらいにはなれ!」と檄を飛ばされていた。長女の千里は、大人になったら才女になりそうなタイプ。的確に“現在(いま)”のトピックについて情報を収集し、ものもハッキリいう子だった。あとの3人はまだ小さ過ぎて、あまり特徴をつかめないが、次男の博太郎は結構ひらめきが強く、また“ハイカラ嗜好”がある子、次女の平子は大らかでおっとりしていて、三女の和子は一番小さいので、万事人のマネをして動く、といったところである。
さて、万田一家は万博見物の中で、さまざまなハプニングを引き起こす。その全てが、主導権を握っているらん子の振る舞いによるものだった。
最初は博太郎と和子が迷子になった時だった。博一(父親)は心配して探しに行くが、らん子は、「ほっといたら匂いかいで付いてくるわ。それよりも、ウチ『動く歩道』見たい」と言って、そっちに行こうとした。
その後、平子が「トイレに行きたい」と言った時は、博一はあたふたとトイレを探しに行こうと平子の手を引くが、らん子は、「構わんからそこでシーシー、しよし」とひとこと言っただけ。
その間に博太郎は再三、「お母ちゃん、おなかすいた〜!」とせがみ、らん子は「じゃあお弁当にしよう!」と言ってその場にゴザを敷いた。ところがその場所というのは、人の往来が最も激しい、会場のメインストリートだったのだ。そんなところにゴザを敷かれては、通行人に迷惑がかかって仕方がない。早速、発見したコンパニオンに注意されたが、らん子は一向に聞く耳を持たない。そもそもらん子は、『コンパニオン』というのが何なのかサッパリ分からず、そばにいた博行に、「外人さんか?」と聞いたぐらいだった。博行がふざけて、「プレイガールや!」と答えると、らん子は博行の頭を一発どつき、「あんたは、またお父ちゃんから変なこと教えられたんやな!」と決めてかかった。
このやり取りの時、お父ちゃん(博一)は、平子をトイレに連れて行っていて、居なかった。そして数分後、戻ってきたお父ちゃんがコンパニオンを指して、「この人ら、プレイガールか?」と言ったのだからたまらない。らん子は、「やっぱりあんたか!子どもに変なこと教えたんは」といきなり博一にプロレス技を仕掛ける。場内騒然となり、コンパニオンも青ざめるが、子どもたちは、「ガンバレー!ジャイアントらん子〜」「お父ちゃん、お母ちゃん、両方ガンバレ〜」とはやしたてる。らん子は、「おっしゃあ!任しときィ!」と、ますますプロレス絶好調となった。博一は元より「ギブアップ!!」の連発。駆けつけた警官に止められてようやく、らん子は博一を“解放”するが、今度はその手で警官にまでコブラツイストを仕掛けようとする凶暴ぶりだった。このとんだケンカ騒ぎに、周りの見物客はすっかりエキサイティング。一方、服もヨレヨレになった博一は、ひたすら警官に平謝りだった。
さんざん警官に注意されても、一向に懲りないのがらん子だった。
「何やねん?万博の会場で何でホタエたらあかんねん?うちには子どもが5人もいてるのに、ホタエんと帰るやつがどこにおるか!だいたい、どこに行っても行列行列で、6時間待ちに7時間待ち。うちら遊びに来たんやで。行列に並びに来たんとちゃうわ!」
まさに向かうところ敵なしとばかりに、言いたい放題のらん子だったが、これには周りで聞いていた見物客からも、「そうやそうや!」と、賛成する声が上がった。
警官は、「確かに今日はいつもの倍以上の人が入場していますが、あと8日で万博も閉幕ですので、仕方が無いんです」と弁解。
コンパニオンも、「昼過ぎまでに、既に75万人の方が入場されています。パビリオンも、一番短い行列で10時間待ちとなっている状況です」と、多少申し訳なさそうに説明した。
「一番短くて10時間待ち!!」スットンキョウな声を上げたのは、またもらん子だった。しかも、「今の時刻は?」と訊いたところ、答えは「午後1時です」そして、「会場が閉まるのは?」との問いには、「午後10時」つまり、あと9時間で閉まるところ、最短の行列が10時間待ちなのだから、事実上、どこも見れないことになるわけだ。その事に気付いたらん子は、いい加減バカバカしくなってきて、やおら大声で笑い出した。周りの観客もつられて笑う。
「ギャハハハハ、ギャハハハハ・・・・・!!」
ひとしきり笑い飛ばした後、らん子は急に真剣な表情に変わり、とんでもなく大きな声でこう叫んだ。
「よっしゃ〜!!泊まったる〜!!泊まったるでぇ〜!!万博の会場に泊まりこんだるううう!!こうなったら野宿や!朝まで居残って、明日の朝一番でパビリオンに並ぶぞおお!」
周りの観客はこれを聞いてさすがにビックリした様子だったが、次々に、「おお〜〜〜!おお〜〜〜!」という声が聞こえた。一方、警官にコンパニオン、それに騒ぎを聞いて駆けつけていた他の万博職員たちは、「そ、そんな・・・・・」と言うだけが精一杯だった。らん子はますます意気が高揚して周囲に音頭を取るようになる。かくして、恐らく万国博覧会としては前代未聞であろう、『観客の会場泊まりこみ』が実現したのであった。
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| たった一枚残っている、舞台本番中の写真。 博一が、らん子にプロレス技をかけられ、アップアップしている場面。 周りには野次馬の見物客。そして会場コンパニオンがうろたえている。 だが、周囲の迷惑などお構いなしの、傍若無人ならん子であった。 |
明けて9月6日未明・・・・・・・
会場内の興奮は、依然として収まっていなかった。らん子を中心に、およそ普通とは思えない盛り上がりを見せる。場内の観客は、らん子を中心にまとまった、一つのチームのようになっていた。そしてそんならん子を時になだめ、時にジョークでフォローしたつもりがスベッてしまい、らん子にドツキ≠食らわされているのが、博一であった。
会場で“野宿”をした観客の総数は5,000人以上。そのため、万博事務総長の指示で、食料も急遽支給されることとなり、要請を受けたパン屋や弁当屋が駆けつけたほか、毛布の支給も行われたが、いくら職員が「順序よく、秩序を守って・・・・・」と呼びかけても、らん子は元より、観客はお構いなし。まさにテンヤワンヤのお祭り騒ぎだった。さらには、どさくさに紛れてヤクザのテキ屋や、金魚すくい屋も登場して、それをとがめようとした警官が反撃されたりして、ますます大騒ぎになったのである。
その内に、何故か突然阿波踊りの一行が現れたり、一輪車に乗った子どもの集団がやってきたり、挙句の果てには三味線音頭が登場したりと、何だかどこまでが現実でどこまでが夢か分からないような、不思議な空間。とにかく、盛り上がりだけはピークに達していた。
さて、“大人たちの宴”が激しくなる中、万田家の子どもたちは、いつの間にか大人たちの大群を抜け出し、ほかの子どもたちも一緒になって行動していた。その内にケンカも起こり、巡回していた警官がそれを発見すると、警官は子どもたちに、『進歩』と『調和』という言葉の意味を教えた(70年万博のテーマが、『人類の進歩と調和』だった)。
「ケンカしたらあかん。お互い調和して、仲直りするんや」と、優しく諭したのだった。
やがて夜が明け始め、人々も寝静まり、『おまつりのヨル』もようやく終息に向かおうとしていた頃・・・・・、
会場の一角に、長男・博行の姿を探す、父・博一の姿があった。やがて前方より歩いてきた博行を発見。父が息子に声をかけた。
「博行!」
「あ!お父ちゃん」
「どこ行ってたんや?探してたんやで」
「ちょっとトイレに行ってたんや」
「そうか・・・・・」
しばし間を置いて、博一が語り始める。その様子はどう見ても、普段のおどおどとした、頼りなげな博一とは別人だった。二人の周りに、起きている人はいない。
「博行・・・・・。お父ちゃんな、いっぺんゆっくり、お前と二人だけで語りたかったんや。お前は・・・・・、どちらかと言うとお父ちゃんに似てるさかい、もっとしっかりしてもらわんと困る、と思っててな・・・・・。これからは大丈夫やろうと思うけど、博行、お前、ほんまにしっかりせんとあかんで。」
「なんや今日のお父ちゃん、いつものお父ちゃんと違うな」 今まで感じたことのないような空気を、父親から感じ取っていた。
「男同士でおるからや!こんなん初めてやもんな」 どこか無理して元気を装っているように見える。博行は、「・・・・・ん?」と言ったきり、反応が無かった。
「博行。万博、楽しかったか?」
「うん。面白かったわ!」
「お母ちゃんが何でこんなに・・・・・、野宿までして万博を楽しもうとしたか、分かるか?」
「え?」 意外な質問に、博行はまたも返す言葉を失った。博一は、博行を真正面からグッと見つめ、力を込めてこう話し出した。
「お母ちゃんな、今のうちに、みんなに楽しい思い出を作っておきたかったんや。だから無理に・・・・・。あのまま何も見ずに帰ってたら、思い出作られへん。そやから・・・・・、そやから・・・・・」
「どないしたん?お父ちゃん」 父の目は涙で充血しているようにも見えた。博一はさらに力を込めて言う。
「博行!お前、長男なんやから、しっかりせんといかんで!いざとなったら、お前がお母ちゃんを守ってやらなあかん!わかるな?」
「・・・・・・。」 完全に言葉を失っている。ただならぬ父の様子をどう受け止めていいのか、迷っていたのだ。
「約束出来るな?博行。お母ちゃんと、弟と妹たち、お前が守る・・・・・」
「うん、ボク長男やもん」 ようやく言葉が出てきた。
「そうか!よかった!ええ子やな、博行。大きくなったら、強い大人になるんやで。ええな?」
「わかった。男同士の約束や。『じんるいの、しんぽと、ちょうわ』や。父ちゃん、指きり!」 頼もしい答えが返ってきて、父は満足した。
「よっしゃ!指きり!」
東の空から、朝陽が昇ってくる。ある意味、父子の二人を祝福している朝陽にも見えた。博一は晴れやかな表情で、「博行、見てみ。お日さんや!」と言った。
1970年9月6日の朝の光景。そこへ、2000年(現代)の光景がかぶってくる。37歳になった『長男』博行の声が流れる
「おやじが、胃がんでこの世を去ったのは、あのおまつりのヨルから、半年後やった。あの朝、おやじが俺に言った言葉は、多分、遺言みたいなもんやたんやな・・・・・。おやじは、もうみんな分かってた。自分がもう死ぬことを。子どもを5人も残して、34歳で死ぬんやから、そりゃあ言いたいことは山ほどあったんやろうな。俺はおやじが話してたことを、おかんには言わんかった・・・・・。」
ここで最初の場面(2000年の、ある会社のオフィス)に戻る
「気が付いたら、俺、もう37や。おやじが死んだ年を、3つも越えてもうた。えらいもんやな」
万田博行は、改めて感心したようにこう言った。
一緒にいた警備員は、博行に問うた。「自分ではどう思います?お父さんが言われたように、あなたのお母さんみたいな強い人になれましたか?」
博行は少し考えてから、言った。
「いやあ、あんなふうには、なかなかなれんもんやで。努力はしたけどな」
「家族を守ってきたんですか?」
「おかんが頑張ったからな。どうなんやろうな」 およそ自信無さそうに、博行は答えた。
数呼吸の間を置いて、警備員は仕事に戻るため、博行のデスクを後にした。
一人残った博行は、「さて、と」と言いながら、もう一度パソコンの電源を入れてみた。30年前のあの賑やかな光景が、まだ脳裏をよぎっている。
まだまだ小さかった、弟や妹たちの声が聞こえてきた。
「お兄ちゃ〜ん!」「お兄ちゃ〜ん・・・・・!」
以上が、舞台『おまつりのヨル』の物語の流れである。今回の私のエッセイにとって必要と思われる部分のみを抜粋しているため、必ずしも台本に書かれている内容すべてを書き写したわけではない事を、お断り申し上げる。
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| 今となっては宝物。 『おまつりのヨル』台本 |
博一が長男博行に、遺言≠ニも取れる 話をした場面の台本。劇中最も、『奥さんからの愛情』 を感じながらセリフを言わなければならない場面だった。 ※画像をクリックすると拡大版が表示されます。 |
さて、万田博一という、物語の中では実質主人公とも言える人物の役をいただいた私であったが、実際、私は最初に希望する配役を演出家に提出した時に、『博一役を希望』と書いていた。何故博一役をやりたかったか?それはひとえに、上で述べた物語の解説の中でも登場する、最後の長男との対話が気に入ったからである。ああいう父と子の感動の場面、みたいなものに、当時の私は憧れる傾向があった。それは、自分自身が、その時点で既に父を失っていた事が、関係しているのかも知れない。あるいは・・・・・、まだ27歳(配役決定時点では26歳)の若き頃であった私は、『子どもを持ち、父親になる(=その前に誰かと結ばれる)』という事を、どこか夢として持っていた可能性もある。
とにかく、初見(初めて台本に目を通すこと)で、パーッと惹かれていって、サーッと希望の役として選んだ、というような感じだったのだ。もちろん、まだ舞台2回目で、キャリアの面でもほとんど無いに等しかった私は、本当にその役になれるとは思ってもいなかった。だから、いざ配役が発表された時、私はもう少しで、「え!」と叫び声が出そうになるほど、驚いたものであった。多少は幸運が味方した部分もあったのかも知れないが、かくして私は、“父親”という人物に、全力投球する事になったのである。
初稽古での演出家からの第一声:「代わりはいくらでもいるんやぞ」
2000年5月初旬、ゴールデンウィーク明け、いよいよ公演舞台の稽古が開始された。万田博一役としての緊張の初稽古である。
演出家の先生の厳しい視線が見守る中、最初の登場の場面から演技をやっていたのだが、少し進んだところで、早くもつまずいてしまった。博一が一人大笑いをするという場面があるのだが、声がうわずってしまって、笑い声にならない笑い方(かすれ声のような感じ)になってしまったのである。それを聞いて、稽古場にいた他の班員たちが爆笑してしまった。私はもう一度笑い声を立てようとしたが、またも頬の筋肉に力が入り過ぎて、声はか細いという結果に。ここで演出家の先生がおもむろに身を乗り出し、ひとこと言った。
「あのなぁ〜、代わりはいくらでもいるんやぞ〜」
この役をいただいてから、演出家の先生に最初にかけられた言葉がこれであった。
私はザーッと汗が引いていくのを感じたが、ここで『エイヤーッ』とばかりに、腹にたっぷり力をため、体の底から声を出すようにして笑ってみた。三度目の正直で、今度はうまく笑えた。そのため、その場面は無事にパスをし、稽古は続行された。
演出家の先生には、その後、8月13日の本番千秋楽までの期間、数え切れないくらいの注意やダメ出しを受けることになるが、第一声となった上記の一言が、私は今でも忘れられない。「役を代わられてなるものか」という思いが、言われた瞬間、体中を駆け巡ったと思う。あの局面を乗り切れた時には、本当にホッとしたものであった。
想像以上に“重かった”、長男・博行へのセリフ
先ほども述べたように、私がこの舞台で博一役をやりたいと思った理由は、劇中最後の博行との語り合いのシーンが好かったからである。そして待望の“ラストシーン”、私は精一杯の感情を込めて、博行へのセリフを言った。
少しでも早く、『自分のセリフ』にしようと思って一生懸命言っている内に、この、博行への『遺言』が、自分には想像以上に重い言葉だという事に気付いた。
「よく俺がこんなセリフを言えてるな・・・・・」
私は、こう感じるようになってきた。考えてみれば、「長男として、しっかり家族を守って生きろ」みたいな事は、自分自身は、本来誰にも言える資格が無いのである。
私自身も、長男である。それも一人っ子だ。そして私はとにかく、生まれた順番や子どもの人数(兄弟の有無)によって、親など、上の世代からいろいろ言われたり、プレッシャーを与えられたりする事に弱いタイプなのである。世の中には、誰にも言われなくても自ら、「俺は長男だから、俺が・・・・・」と言う人もいるが、私は口が裂けてもそのような事は言えないタイプだったのだ。その事が最も顕著に表れたのが、父が亡くなった時であった。あの時、私は会う人会う人から、「じゃあ君がしっかりしないと」、「じゃあ君がしっかりしないと」と言われ、「何でこう、同じ事ばっかりみんな言ってくるのだ?」と、内心負担に感じていた部分があった。もちろん、自分はしっかりする気が無かったわけではないし、一応の自覚というのはしていたつもりだ。だが、元々自分は、頑張ってもなかなか“しっかりした”人になれず、歯痒い思いをする人生を送っていた。そこへ余計に言われるようになったものだから、さすがに内心、潰れそうな心境になったのである。加えて、一人っ子(=長男)という事で、変にプレッシャーを感じさせられる部分もあった。色々な意味で、父が亡くなった後の事を、全部自分に向けられるというか・・・・・。そういう空気に、人には言えない“恐怖心”を感じ、「穴があったら入りたい」という気持ちで毎日を過ごしていた日々が、あったのである。
父の死に関しては、別のエッセイでも述懐しているが、その時を境に私は、『長男』という言葉を聞くのがすっかり苦手になってしまった。そんな“過去”を持っているものだから、例え芝居の中のセリフとはいえ、私の口から、「お前は長男だからしっかりしろ」という言葉を出すのが、何やら非常に申し訳なく、身丈違いの行為をしているみたいで、言い様のない気恥ずかしさを感じたわけである。
これだけの言葉を堂々と言うのならば、余程の覚悟が必要だと思った。自分自身を棚に上げ、自分の最も使いたくない言葉を、完全に役のセリフだと『割り切って』言わなければならないのだから、こうなったらもう、それこそ自分が“しっかりして”、勇気を持つしかないな、と思ったものである。
元々、自身も父親を亡くした立場として、逆にその父親側の立場で子どもに真剣に語って聞かせるシーンに憧れたからという、いとも単純な動機でこの役を希望したのだ。そんな私の動機は、実に『甘かった』と認識せざるを得なかった。
私は、家でも毎日、『長男』『長男』と言いながら、セリフの練習をしていた。
『子どもとのコミュニケーション』という事
この芝居では、私は5人もの子どもを持ち、しかも1番上でもまだ7歳という、小さな子どもばかりを持つ父親の役だから、当然、子どもとの絡みが多いものであった。中には、子どもをおんぶして走り回るというシーンもあったりして、よほど『お父ちゃんらしい』キャラクターを持つ事が必要な役だったのである。しかし、最初は子どもとの絡みというのがなかなかしっくり来ず、苦労を重ねなくてはならなかった。
本来、私自身は決して子どもが苦手というタイプでは無いと思っていた。確かに日頃、小さな子どもと接する機会というのは無かったが、別にだからにどうこう、とは感じていなかった。実は過去には、毎日のように子どもたちとたわむれていた時期があったのだ。それは中学3年生の時だ。
当時私は小中学生が一緒という海外の日本人学校に通っており、毎日スクールバスで登校していたのだが、同じバスに乗っている小学生の中で、一人乗り物酔いしやすい人がいた。それで、一応学年が上だという事でそのバスの班長になっていた私が、「何とかこの子が酔わない様に気を紛らわしてやってくれんかな?」と、バスの配車係りの先生に頼まれたのである。正直私は「どうしようか?」と思ったが、取りあえずその子本人(因みに女の子)ではなくても、他の子どもたちとでもいいから、と、どんどん自分からしゃべり、あとは子どもから返ってくる言葉次第で、冗談を言ってみたり、ボケをかましたりした。その内何人かの子どもが、私にあるニックネームを付けてきた。それは普通に考えれば、決して有難いとは言えないニックネームだったが、私はそれをネタにツッコミを返したり、さらにボケてみたりするなどして、バスの中は子どもたちの笑いが常に聞こえる状況となった。
結果的に私と子どもたちを近付けるきっかけとなった、乗り物酔いをしやすい子は、残念ながら父親の会社の都合で、1学期限りで帰国してしまった。だが、同じバスに乗っていた子どもたちは、2学期以降も引き続き私を見て喜んでくれた。私も当時は中学3年という事で、毎日『受験生』というプレッシャーが頭から離れず、しんどい日々を送っていた。また、日本を離れて暮らしていたため、故郷にいる愛犬とも会う事が出来ず、寂しさも常に心中を漂っていたのである。それだけに、スクールバスでの子どもたちとの賑やかな時間というのは、私にとってこの上にない気分転換にもなり、癒しにもなっていたのだった。
そんな懐かしい思い出から12年、この時の舞台で、久しぶりに子どもと身近な時間を過ごす機会がやってきたのだった。本来なら、もう少し喜ぶぐらいでも良かったかも知れない。しかし、どういうわけか公演稽古の前半期は、博一の子ども役をする子たちと、コミュニケーションらしいコミュニケーションを取れないでいた。いや、取ろうとしていなかった。一緒に手をつないだり、おんぶをして走り回るシーンもあったのだが、それらもどちらかというと、『一台本どおりの動きとして』、やっていただけ。稽古途中の休憩時間や終了後の自由時間にも、私は一向に子どもと接する気配が無かったのである。それだけではない。先ほど述べた中学3年時代の経験、これも、思い出す事が全くなかったのだ。思い出しても当然だっただろうに、記憶に蘇ってこなかったのである。考えてみれば、何とも不思議な話だ。いつの間にか、私の心は子どもと疎遠になっていたのだろうか・・・・・?そんなある日、私は稽古後、先輩にひと言、こう言われた。
「お前は子どもが嫌いなのか?」
一瞬ビックリした。そして、「いや、そんな事ないですよ」と答えたが、先輩は厳しい目で、
「お前の稽古を見てたら、全然子どもが好きなように見えない。お父ちゃんの役やろ?」
この時、私は初めて、今まで稽古場で子どもたちにろくに声をかけていなかった事に気付いた。そして同時に、ようやくあの中学3年時代の記憶が蘇ってきたのである。
「俺にもあんな時があったのに、今の自分は何てもったいない事をしているんだろう?せっかくだ。どんどん子どもたちと仲良くなろう。そして、本当に親愛の情を込めて、芝居上のセリフも言えるようになろう」
心に決めた。その翌日から、稽古場での私の態度は変わった。子どもたちに大きな声であいさつをするようになり、しかもただ言うだけでなく、ワザとちょっとおかしな感じで言って、笑いを誘うようにした。そして公演班に限らず、劇団の団員は全員名札を付ける決まりになっていたのだが、その名札の字を、漢字から平がなに改め、なおかつ子どもの目線から見えやすいように、付ける位置を少し低く、向きも下向き加減にしてみたのである。これが予想以上に功を奏し、子どもたちはみんな、今まで注目しなかった私の名札に目を向けるようになり、繰り返し私の名前を呼んで、覚えてくれた。覚えてもらえるとこちらも声をかけやすくなり、どんどん会話が増えた。冗談も絶えないようになり、あの中学3年時代を彷彿とさせるような光景になったのだ。
嬉しかった。「やっぱり俺は、子ども嫌いと思われたくないやつなんだな」 そう思った。何だかとても明るくなり、稽古にも一段と熱が入るようになった。
今でもそうだが、私は本当は子ども好きでありたい。そうでないと、とても寂しい。子どもはこちらから働きかけると、ちゃんと応えてくれる。こちらの気持ちを、すぐに受け入れて態度に表してくれる。この舞台を通じて得た、「子どもに受け入れてもらえる」という自信は、とてつもなく大きな力となった。
現在、私は職場の年間イベントなどで、子どもたちと出会う機会が比較的多いのだが、やはり出会う度に、「自信を持って、子どもの中に入っていきたい」という気持ちが沸いてくる。
私を子どもに『再び目覚めさせて』くれるきっかけとなった、あの時の先輩の叱咤には、今でも心から感謝している。子どもの感性は、本当に素晴らしい。
『夫婦仲の表現』へのチャレンジ
この舞台の主役は博一だったが、もう一人、忘れてはならない主役がいる。それはもちろん、らん子。『おまつりのヨル』は、万田一家の親子物語であると同時に、博一とらん子との夫婦物語でもあった。だから博一を演ずるにあたって、『夫婦仲の表現』というのが要求されるのは、当然の事といえた。
私は、博一が私自身をそっくり置き換えたような、気弱で頼りない人物であった事から、ただただその気弱さ、嫁さんに対する臆病さを表現する事のみに執着していた。というより、ある意味“芝居をしないまま”役作りになっていたと言った方がいいかも知れない。
ある日、稽古後の反省会で、先輩に言われた。
「お前とらん子、全然夫婦に見えへんな」
「ああ、そうですか?それはどういう・・・・・、どうして見えないのでしょうねぇ・・・・・?」 やや迷い気味に私が訊くと、先輩はズバリこう言ってきたのだ。
「お前の女苦手な部分ばっかりが目に付くんや。いかにも、『ボクは恐々女と接してます〜』みたいな。見ていて、ありゃ芝居やないで」
「・・・・・・・」 返せる言葉がなかった。
『女苦手が演技に出ている』 自分では全くそんな自覚は無かった。いや、それはもちろん、私が女苦手というのは事実だと認めてはいたし、まだ20代だったが故の宿命、女苦手がコンプレックスにもなっていた。しかし、一応演技の中ではそれはモロには出ていないだろうと思っていたのだ。結果は、どうやら甘かったらしい。
『演技とは、日常生活の再現』と、ある先生(現役の女優さん)から聞いた事があるが、これは日常生活を映像的に再表現するという事に加え、“当人の日常生活での内面がそのまま再現されてしまう”という意味も、裏で含まれているのではないのか?と感じずにいられなかった。何とか、女苦手という“日常生活”を、演技から消さなければならないと焦った。
一体どうすれば良いのか?さすがに一人で考えていても分からないので、先輩にもアドバイスを求めた。
「取りあえず、らん子役の人とよくしゃべれ。それで夫婦の絡みを、二人でどんどん稽古するんや」
「ああ、なるほど」 と私は思った。次の稽古の時から、ごく短い、他愛もない内容でも、芝居の中以外でらん子役の人に話しかけるよう、努めた。その内に彼女のほうから、「プロレスのシーンの練習をしましょう」と言われ、私もワザとオーバーにやったりしながら、コミュニケーションを増やしていった。向こうから働きかけてくれるのは有難かった。
らん子役の人は、年齢こそ私より若かったが、劇団の団員としてはもう何年も先輩で、公演舞台の回数も二桁を数えるという大ベテランであった。それだけに、公演班全体の中でもリーダー的存在であり、準備運動の時なども指揮を執っていた。そういう、全体の中でも上で、まとめ役の立場にある人だったから、別に年齢が自分より若いという点にも意識が向くことは無く、安心して協力してもらう事が出来た。
成果は着実に現れた。何週間か経つと、今度は先輩からこう言われた。
「まだお前の演技は全然夫婦と違うな。何か、仲のええ友達には見えるけど」
依然、厳しい評価に違いはなかったが、『仲のええ友達みたい』と表現された事で、『女苦手が出ている』という状況だけは、しっかり克服したと確認する事が出来た。
苦手だったら、仲良さそうにすら見えるわけがない。実際私も、学生時代に学校などで仲のよい女友達と一緒にいた時は、「女が苦手」という感情もまともに出てはいなかった。らん子役の人と、夫婦の絡みの稽古を出来るだけ沢山こなし、短いながらも雑談を挟むようにした事で、それなりに親近感を持ててきたのであろう。
ただの友達ではなく、『夫婦』に見せるというのは、実際に結婚した事がない人にとっては、本当に難しい事だと思う。だが、それは自分だけではなく、相手(らん子役)だって同じ事なのだから、あまり気にせずに自分の出来る範囲で、『夫婦』を表現しようと思った。私は、実は自分の両親の姿(特に亡き父の)を思い起こし、どういう振る舞いをしてどういう物の言い方をしている時に一番夫婦らしく見えていたか、回顧した事がした。その結果、一つにはスキンシップの多少、というのがポイントになるのでは?と気付いた。あとは何と言っても、仲のいい事である。仲良さそうに振る舞う事が、特別な関係っぽく見せるための、最大の近道である。
スキンシップについては、いくら演技とは言え、あまり大胆な事は出来なかった。だから、今までは口でらん子に話すだけでいたのを、肩にポンと手を置く動作を添えたり、軽く背中を押す動作を添えたり、さらに並んで立つ時に、ピッタリ傍に寄り添って立つようにして、ただの友達関係ではない事をアピールした。
結果的に充分な表現が出来たとは、今でも思ってはいない。だが、可能な限りの演技はやってのけたつもりでいる。
立ちはだかる厚い壁:『らん子の“愛”を感じながら』子どもに語る・・・・・
私が万田博一の役をやりたいと思ったきっかけであり、『おまつりのヨル』の芝居全体で見ても一番のハイライトシーンである、博一と博行の親子シーン。
「長男だからしっかりしろ」というセリフに対して肩身の狭さを感じながらも、私はこの場面への準備には余念が無く、毎日精一杯の力を入れて稽古をしていた。このシーンは、実はガンに侵されていて余命が短い事を知る博一が、残されてゆく子どもたちの、中でも特に長男に対して、『遺言』の気持ちで語るシーンなのだから、私としては、100%『父親』という感情になり切り、父としての、子どもへ対する愛情、感謝、そして早々と逝く事に対する申し訳なさといった気持ちを込めて演技をすれば、あとは何も問題は無いと確信していた。ところが、それは大きな間違いであった。ある日の稽古上がり、私は演出助手の先生に呼ばれた。先生は訊いてきた。
「君はこの場面、どういう気持ちで、どういう事を感じながら芝居をすれば良いか、分かるか?」
実に深い内容の質問だった。私は答えた。
「はい。父親対息子だという気持ちになって、息子と二人で語れる喜びを感じながら、子どもへの、父としての愛情と、間もなく自分が死んでゆく寂しさを感じながら芝居をすれば良いと思います」
つい先ほど、上記で述べた事と全く同じことを言った。
「あー、なるほどね。それも確かにそうだよな。でも、一番重要な部分が欠けている」
「え!」 私は思わず驚きが声に出てしまった。自分はもうこれ以外に何も無いと信じ込んで芝居をやっていたから、いきなり「欠けている」、それも「一番重要な部分が」と言われて、正直言うと、面食らってしまったのである。
先生は少しの間、無言だった。私が自分で考える時間を与えてくれていたのだ。だが、私がどうにか言えた一言は、
「えーっと、家族への思い・・・・・、ですか?」だった。これでは、先ほど言った事とほとんど変わらない。
先生は答えた。
「うん。博一が思うというのも大事なんだけど、一番重要なのは、この場面は、奥さんであるらん子からの愛情を感じながら、芝居をしなきゃいけない場面なんだ。らん子から受ける愛情をね。らん子はずっと博一に乱暴な態度を取ったり、プロレスだとか言って暴力を振るってきたり、無茶苦茶だったよね。でも、あの無茶苦茶な荒っぽい振る舞いの裏に、博一に対する愛情というのが、きっとあるんだよ。しかも、博一が本当は病気で先が長くないという事も、恐らくらん子は知ってると思う。だからセリフの中にあっただろ?『お母ちゃんは今のうちに楽しい思い出作っておきたかった。だから野宿したんだ』っていう。あれだよ。もっとらん子から受ける愛情を感じて、表面には出ていないらん子の内面を思って、芝居をしなきゃダメだよ」
「・・・・・・・」 言葉が出てこなかった。
らん子からの愛情・・・・・。自分が示す愛情ではなく、他者から(奥さんから)受ける∴、情・・・・・。
何か、遠い夢の中の世界を、いきなり目の前に突き付けられた心地だった。
何人かの先輩や同輩からも、相前後して同じ事を言われた。
「らん子からの愛情を感じなきゃあかんねんぞ」
「らん子は本当は博一の事をとても愛してるんや。ああやって、暴力的な振る舞いをしたり、いつも乱暴な態度取ってるのも、愛情の裏返しや。あのプロレスだって、実は本気ではないかも知れないんやで」
「博一も悲しんでるけど、らん子だって実は悲しんでるわけや。らん子は博一がガンやって知ってるんやろ?それやのにあそこまで明るく振舞っているらん子って、ほんまはどんな気持ちでおるんか、考えた事ある?」
さらに、こんな事まで言われた。
「博一って、らん子とどうやって結婚したと思う?お互い相手のどういうところに惚れて、どんな恋愛をしていたんやろう?」
「5人も子どもを設けるって事は、それだけすごく愛し合ってたって事やろ?普段、家の中での2人はどんな感じなのか、もっと思い浮かべてみ」
「役作りをするなら、らん子との出会いから今までのロマンスとか、そういう事も自分の中で描いて、組み立ててやっていかんとあかんで」
自分の役作りに、いかにらん子を感じる≠ニいう部分が欠けていたか、これだけ色々な事を周囲から言われて、ようやく気が付いた。
ものすごく難しい『命題』を突き付けられたと思った。 「俺、本当に出来るんだろうか・・・・・?」
らん子の愛情、らん子の悲しみ、そしてらん子との結婚までのロマンス・・・・・。そんな事など、およそ砂粒分も考えた事がなかった。一体どこからどうやって気持ちを作ったらいいのか分からない。私は悩みに悩んだ。『人から受ける愛情を感じる』というのがどんなものか、皆目見当がつかなかった。現在もそうであるが、私は母親や祖母といった肉親は別として、異性からの愛情というのは、ついぞ受けた事が無い。それを、役として自分の中で組立てなければならない、というのはものすごく至難の業であった。
『受ける愛情・・・・・・』『受ける愛情・・・・・・』、毎日その事ばかり考え、悶々とした日々を送っていたある時、不意に私の脳裏にある光景が蘇ってきた。かつて私の父がガンで入院している時、病室で母が献身的に看病していた光景である。今にして思えば、あの時母は淡々と、疲れた表情も見せずに看病に専念していた。そして父も至って落ち着いた、安心した表情をしていたように思う。
「あれか。あれが夫婦愛だな」と私は思った。「あの時の親父の気持ちになればいいんだ、病室の場面を思い出しながら芝居をしよう」、と思い、頑張ってみたが、どういうわけか期待したほど上手くいかなかった。そして、『受ける愛』という事で、私が唯一体験した『親からの愛』というのも、この際どんどん参考にしようと思い、博行との芝居の時には、今まで母が私にいろいろしてくれた事を思い起こしてみた。だが、これもどこかしっくり来ないものがあった。親からだろうと他者からだろうと、愛情は愛情である。何か共通性はあるはずだ、との思いからやってみたのであるが、よく考えれば、両方体験していないと共通性があるかないか自体、分かるわけがない。
だんだん本番の日が近付いて、私も精神的に余裕が無くなってきた。「もう愛情だったら、知ってるものをかき集めりゃ何でもエエわ」と、少々やけくそ気味の心境に陥る面も出てきたが、それでも最後まで諦めず、夜毎家でも愛を想像していた。
高いチケット代をいただき、仕事として舞台に出る以上、途中で投げ出したような芝居をする事は許されない。ましてや博行との最後のシーンは、先ほども述べたが、舞台全体で見ても最大のハイライトシーンなのだ。それだけに、一番責任が重いとも言えた。
例え自分が体験した事の無い場面でも、何とか想像して演技をこなすのが役者の仕事である。その意味で、最終的には役者に最も必要なものは、想像力と言えた。私はいざとなったら、その想像力をフルに働かせて、らん子からの愛を感じる場面を乗り切る決意をした。
もしも本当に私が結婚するなら、相手はどんな人? 独り万博公園で思いを巡らせた日
本番を約10日後に控えた、2000年8月初めのある日、私は独りで、この舞台の設定場所である大阪万博会場の今の姿、万博記念公園に行った。入口のすぐ目の前に、大きな太陽の塔がそびえる。劇中でも万博会場のシーンの入口≠過ぎて早々に、太陽の塔を見て驚く場面があった。その太陽の塔を眺めながら、27歳になって間もなかった私は、ある思いを巡らせていた。それは、
『もしも、私が本当に結婚するとしたら、一体その相手はどんな人物なのだろう?』 という事であった。
これは、公演舞台に向けての、想像力養成の一環でもあった。とかく愛情体験というものを想像する事が苦手な私が、せめて格好だけでも結婚生活を想像してみようと思ったのである。そのために、結婚歴8年以上ではあるだろう博一を演じるこの私が、自らの結婚生活(有る無いは別として)を想像してみる必要もあると考えたわけだ。
結婚相手を想像するにあたり、自分の両親の姿を思い出してみようともしたが、どうも満足に出来なかった。決して記憶が無いわけではないが、人間というのは不思議なもので、相手が両親だと、例え夫婦でも親≠ニしてしか認識出来ないのである。その意味で、自分の結婚相手を想像する時、母親の存在というのは参考にならなかった。
私は、演出助手の先生や先輩方からの数々の助言を思い出しながら、らん子という人物を改めてイメージしてみた。
一見暴力的。人の事をドツき放題、押しのけ放題、踏んづけ放題・・・・・。当然口も悪く、とにかく、いつでもどこでも言いたい放題。恐らく子どもの時はどうしようもないヤンチャで、男勝りな女の子だったのだろう。だが、そんな見た目の印象とは裏腹に、内心では愛情に溢れており、夫への思いも深い。子どもたちにとっては、多分頼りがいのある、強いお母ちゃんなのだ。外ヅラは野生キャラ≠ナ滅法気が強いが、内ヅラは思いのほか夫を支えとしていて、優しさや思いやりもある・・・・・。
ある意味、らん子は外ヅラは悪いが内ヅラはいい、というような人物に見えてきた。
なるほど。少なくとも外ヅラがよくて内ヅラが悪い人よりは、よっぽど安心出来ていい。人前では大人しくて物静かな妻でありながら、夫の前になると途端に凶暴で我がままムキ出しの妻に変わる、というのは、やはり嫌だ。いっそ見た目はカカア天下みたいな性格の方が、そのぶん、夫思いの一面が当人の前で表れ、いい意味でのギャップ≠ェ生じるかも知れない。
「どうやら、私が結婚する場合の相手の人物像は、『らん子ほど極端ではないが、ある程度それに近い雰囲気』というところで落ち着きそうだな」
つくづくそう思った。考えてみれば、私の人物像自体、博一のそれと瓜二つなのだ。いかにも要領が悪く、不器用で、何より頼り無い。私が博一役に抜擢されたのも、それゆえんだ。そして実は、私はこの前年の舞台でも、押しの強い性格の嫁にハリセンで思い切り叩かれたりする、弱々しい夫の役を与えられていた。これはチョイ役で、短い時間しか出番が無かったのだが、2回舞台に出て、2回とも似通った役になったわけである。この事が、私が結婚した場合の人生を暗示しているというのも、あながち当たっていなくは無いのではないだろうか?
『役は嘘を付かない』とまでは言わないが、自分が役の人物と似ていれば似ているほど、自分の結婚相手も役の人物のそれと似ている人になる、というのは、有り得る話のように思えた。
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| 万博公園東側広場。最初、太陽の塔を眺めていた私は、そのあと公園を半周した。 そしてこの広場にあったベンチに腰かけて、ひと休み。その間、しばし考えていた。 「博一は、多分ここら辺りでも、らん子に体当たり≠食らっていたのだろうな・・・・」と。 |
舞台の本番を目前に控えた2000年8月初め、盛夏の万博公園で、私はひたすら自分の結婚相手のイメージを描くという、およそ本来ならやるはずの無い事をやっていたのだった。もちろん、相手の顔までは想像(創造)出来なかったのは言うまでもない。
32歳になった現在、もう二度とこのような事を想像する機会は無いだろう。
本番で、2日連続しでかした大失敗
2000年8月11日、いよいよ舞台は本番を迎えた。本番は13日までの3日間上演され、11日が初日になったわけだが、何百回も練習を重ねたとはいえ、やはりいざ本番となると、その緊張感は格別なものがあった。特に初日というのはそうである。私も実は初めの方で、一つセリフを飛ばしてしまった。それだけ、カーッとなっていたのである。それでも、他はセリフ上の失敗というのはなく、演技をこなせたと思う。
だが、初日と2日目と、連続で同じ失敗、それも極めて重大な失敗をしでかし、演出家の先生にダメだしで激しく怒られたという事があった。それは、最後の博行との、例のハイライトシーンで、博一が博行に、「お母ちゃん、今のうちに楽しい思い出作っておきたかったんや。そやから・・・・・」という場面である。この場面では博一は、グッと涙をこらえ、抑えた表情で演技をしなくてはいけなかった。精一杯悲しみをこらえている様子が伝わってこそ、感動を誘うという演出だったのだ。ところが、私は本当に泣いてしまったのである。ボロボロ泣きながらセリフを言い、誰が聞いても涙声にしか聞こえない声になってしまっていた。一度は鼻まですすったような気もする。これでは、演出家の先生の意図した芝居に全然沿っていない。初日はまだ注意されたぐらいだったが、2日目も同じように感極まり過ぎて泣き声になった時は、さすがに先生にこっぴどく怒鳴られてしまった。
「コラーッ!!泣くな!ええか、グーッとこらえるんや、グーッと。あそこは父親が、長男の前で涙を見せてなるものかと、気持ちを押えて語る場面なんや。悲しみを抑えてるのが伝わってこそ、ドラマとしての効果があるんや。分かったか?とにかく、泣くな!ゼッタイに泣くなっ!」
何度か繰り返し言われて、私も「よ〜し!」と意を決した。そして3日目、千秋楽、私はようやく泣かずに最後までやり通せた。先生に言われた通り、押さえ気味の♂焔Zで、高ぶる気持ちで話すというよりは、一見トツトツと言って聞かせるように話したのである。やり終えた後、「我ながら今日のほうが演技に重厚感があったな」と感じた。そして先生からもようやく、「うん。好かった」と言ってもらえたのだった。
脳震盪を起こしながらの芝居、そして『受ける愛』表現の行方は?
『おまつりのヨル』の感動のハイライトが博一と博行のシーンなら、爆笑のハイライトは、らん子のプロレスのシーンと言えた。あのシーン、私はらん子役の人とも相当数練習を重ね、動きにも自信はあった。しかし、確か3日目(千秋楽)だったと思うが、仰向けに地面に叩きつけられるところを敢えてド派手に頭から床に激突したため、脳震盪を起こしてしまったのだ。後にも先にも、あれほどの脳震盪を起こした経験は、他に無い。後頭部が床にぶつかった瞬間、『グワワワワワ〜ン』と、頭の中や耳の奥で妙な音がし、続いて『キーン』という音がした後、耳が遠くなっていった。声は一応聞こえていたのだが、耳栓をしながら聞いているような感じで、目の前もフラつき、体だけが反応しているという感じだった。今思い返しても、よくあの状態で芝居が出来ていたものだと思える数十秒であった。プロレスの場面が終わり、警官が見物客にアナウンスをするあたりになって、ようやく聴力が戻った。そして異音も聞こえなくなっていた。
まさに体を張って演技をした感のあるプロレス場面だったが、実は3日間通して、演技中観客席の反応というのが全く聞こえなかったのだ。実際はみんな大爆笑をして、沸きに沸いていたのであるが、演技をしている時は客席からは音一つ聞こえず、シーンとなっていた。だから私は、最初は本当に観客が無反応だったのだと思い込み、内心ガッカリしていたものだった。後で私からチケットを買って観にきてくれていたお客さんから本当の事を聞き、喜ぶと同時に、自分の耳には全く聞こえてこなかった事に、驚いた。
人間、本当に集中すると、周りの音がシャットアウトされてしまうというのは、本当なのだなと思った。何しろ舞台上の、芝居の流れに関わる音は、全て聞こえていたのだから・・・・・。
さて、『受ける愛を感じる』が命題だった最後のシーンは、先ほど一つの大失敗をした事を述べたが、シーン全体としてはどうだったのか?
『受ける愛』を自分のものとして表現出来るだけの想像力は、果たして身に付けられたのだろうか?
結論から言うと、とてもリアルには愛を作る事が出来なかった。自ら万博公園に足を運んで、らん子の思いや自分が結婚した場合の人生を想像するなど、それなりにイマジネーションを高める努力はしたつもりであるが、演出助手や先輩から言われたほどには、愛を自分のものとして作る事は、出来なかったのである。
『想像力』というものの重要さを生涯で最も学んだ一方で、逆に『想像力』だけでは超えられない壁が存在するという事も、今まで以上に学んだ。これだけでも、27歳の夏の大収穫だったかも知れない。
らん子の存在を充分感じる事に限界があった分、子どもたちへの思いや『愛』というのは、稽古初期の頃の予想を遥かに超えるぐらい、感じられたのではないかと思う。
万田博一としても、短い歳月ではあったが、一緒に家族として過ごしてくれて有難うという気持ちを、たっぷり作れたと思う。そして、演じた私自身としても、子役の人たちに対する感謝の気持ちは大きかった。子どもたちが自分になついてくれ、親しみを持ってくれたお陰で、どれだけ元気付けられ、稽古にも力が入ったか分からなかった。毎日休憩時間などに一緒に遊んでいて、本当に家族のように感じていた。自然の内に、『自分の子ども』という感情に入っていけるようになったのだ。出来るものなら、これからもずっと一緒に会い、遊んだり何かをしたりしたいな、という気持ちがあった。
そんな子どもたちとはしかし、舞台の本番が明ければ、別れなければならなかった。本番の後、打ち上げも控えていたが、それも終わると、いよいよ公演班は解散である。普段、舞台が無い時のレッスンでは、お互い全く違うクラスで、時間帯も別なのだ。せっかく仲良くなれたのに、別れるのはやはり寂しかった。ことに本番直前の数週間、学校が夏休みの時期に入った事もあって、本当に連日のように集合して稽古をしていたから、なおさらであった。終わってバラバラになった後の、プツンと途切れた様な<Mャップが想像つかなかった。そんな一抹の寂しさを感じて、そして、自分をここまで押し上げて≠ュれて有難うという感謝の気持ちを込めて、本来の演出とはズレた形ではあったが、最後のシーンは熱演出来た。あの、涙が本当にこぼれてしまったのも、子役の人たちへの情があふれ出したからかも知れなかった。
とにかく結果としては、自分なりに精一杯の感情表現をし、『家族』を感じ、『情』を沸き立たせながら、最後のハイライトシーンを演じた。
2000年8月13日、公演舞台千秋楽。万感胸に去来するものがあった。
終章 ー青春の千秋楽ー
公演舞台『おまつりのヨル』は興行的にも大成功を収め、大いなる盛り上がりを見せた。特に千秋楽、舞台の最後に出演者が全員揃って観客にあいさつをすると、場内から大きな拍手が沸き起こり、続いて出演者への花束の嵐。盛り上がりはピークに達した。私自身の中でも、『やり遂げた!悩みに悩み抜いた末、ついにやり遂げた!』という充実感で一杯であった。未完な部分は確かにあったが、それでもこの数ヶ月間、ひたすら悩んだ経験というのは、決して無駄にはならなかったと確信していた。お互いに「お疲れさまでした!」と声をかけあい、労をねぎらった。演出家の先生も劇団のマネージャーも、満足そうな顔を浮かべていた。
この舞台の半年後、私は4年3ヶ月間在籍した劇団を退団し、芝居の世界に別れを告げた。過去、味わった事のないような密度の濃い、熱い%々を送れた公演班時代。あれほどの緊張感と、連帯感、そして燃え盛るエネルギーは、もう二度と体験出来るものではないと思う。私は本当に燃えた=Bそして本番以降、極度の燃え尽き症候群にかかった。舞台のテンションと日常のテンションとの落差に苦しみ、あの舞台のムードが恋しいという思いにも、一瞬駆られた。だが、その後、ヒザを痛めるなどして、体力的には芝居を続けるのが難しくなってきた。そして一旦日常のテンションに戻ると、再び舞台への情熱が沸いてくる事は、最早なくなってしまった・・・・・。
私は芝居の世界から足を洗った後、現在の福祉の職場に就職した。
現在の職場では、毎年何回かイベントや行事が行われる。そしてその時は子どもも沢山参加するのだが、私はいつでも自然な気持ちで子どもたちと接する事が出来て、とても楽しい。最も、中にはちょっとおっかなくて恐い子もいるが(笑)。この、自然に接する事が出来るという自信は、『おまつりのヨル』の舞台を通じて付いたと言って間違いないと思う。まさにあの舞台は、子どもたちとの関係を築く自分になるという意味では、大きな始まり、そして原点となったのだ。
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| 子どもたちと接するひととき。毎年職場で行われるお花見。 奇しくも場所は、かつて舞台本番に向けて『シミュレーション体験』をおこなっていた、 万博記念公園である。思い出の場所は現在、楽しいイベントの舞台となっている。 |
他方、もしもう一度、『おまつりのヨル』の舞台の博一役をやったとしたら、私は全く同じ壁にぶつかり、同じ悩みに食い付かれる事は先ず間違いない。何故なら前にも述べたが、『受ける愛』の体験というのは、その後も持つことが無かったからである。そもそもあの舞台以降、誰かに恋愛感情を抱いたり、人と結ばれる℃ゥ分をイメージしたりする事自体、無くなっていった。もう今から人からの∴、がテーマの物語で芝居をする事は、たぶん不可能であろう。
青春時代と呼ばれた時期、私は余りにも夢を抱き過ぎ、何らかのドラマ≠ェある事を信じ過ぎた。そんな若き頃の面影が、あの『おまつりのヨル』の稽古が始まった時点では、恐らくまだ残っていたのだ。それを精一杯燃え尽くさせ、本番の3日間で、今思えば私は、舞台上に鮮やかに撒き散らしていたのである。まさに一片のカケラも残さず、舞台上に撒き切っていたのだ。そういう意味では、あの舞台は私にとって間違いなく、『青春の千秋楽』であった。単に1年の公演舞台の千秋楽だけではなく、10年以上に及ぶ長い青春時代の、千秋楽だったのである。
生涯で私が最もエネルギッシュになっていた、あの大仕事が『青春の千秋楽』になっていたのなら、それはそれは素晴らしいフィナーレではないか。
5周年となった今振り返ってみても、最高のクライマックスである。
ブラボー!!My 『おまつりのヨル』! |
(完)
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